終わりの日、始まりの日



 甘くふんわりと優しい匂いが室内を満たし、それだけで幸せな気分になるというのに、目の前のケーキを一欠けら口の中に放り込んで広がった味に、撫子は満面の笑みを浮かべ、感嘆の声を上げた。

「おいしい……! やっぱり央の作るものが一番おいしいわ」
「ありがとう」

 素直な感想を伝えるべく顔を上げると、このケーキを作ったその人は撫子の反応に嬉しそうに笑った。

「そこに立ったままでいるの央? 営業時間も終わったんだから座ったらどう?」

 まだシェフの恰好をしたままの央に、撫子は目の前の席に座るよう促す。客とシェフならこのままでいるのは普通なのだろうが、今はもう営業時間外だ。座っても怒る人間などいないだろう。

「本当に央のケーキは人気ね。毎日並んでて全く入れないんだもの」

 今二人がいるお店は元々人気のあり、休日ともなると外に人が並ぶほどのものであったが、世界的に有名なパティシエ、英央の凱旋記念イベントを開催すると発表があった途端、予約が殺到したらしい。少し遅れて情報を入れた撫子が予約しようと思った時には既に定員いっぱいで、キャンセル待ちとまで言われてしまったくらいだ。
 少し拗ねたように頬を膨らます撫子に央は笑い声を上げた。それでますます拗ねてしまった彼女に、央はもう1つケーキを差し出した。
 色とりどりのフルーツがたっぷり乗ったタルトを「食べる?」とばかりに目の前に差し出される。
「……食べる」

 目の前の誘惑に勝てそうもなかった撫子は降参するとフルーツタルトにフォークを伸ばす。おいしいと小さく呟きながら食べる彼女を目を細めて央は眺めていた。
 BGMに使っていた音楽さえも切った店内はとても静かで、聞こえるのは撫子が微かに立てる音だけ。央が日本に帰国したのは実に1年ぶりのことで、撫子と会うのもそのとき以来だ。
 少し顔を合せなかっただけなのに、なんだかすごく久しぶりな気がして。そして久方ぶりに会う彼女は1年前よりもきれいになっているようにも思えて、少しどきりとした。

『英シェフ、モテるでしょう。これだけかっこよくて今一番話題のパティシエなんですから』

   撫子と2人きりで会うのは何も初めてではないのに、意識してしまうのは昼間に受けた取材の記者の言葉があったからだろう。
 そのときは笑って誤魔化してその場をやり過ごしたものの、央も気になる子がいないわけではなかった。
 それが目の前の撫子だ。
 友達以上恋人未満、心地良いが微妙な距離感というのが央と撫子との関係だった。撫子とは小学校以来の付き合いになる。元々一学年違っていた彼女とは接点そのものがなかった。おそらく小学6年生のときのことがなければきっと出会うことはなかったことだろう。CZで一緒に課題をこなしていていくうちに、央の弟である円を含む3人はよく同じ時間を過ごすようになった。
 しかし成長した今ではそれぞれ別の道を歩み、央なんて海外を拠点としているせいでこうして撫子と顔を合わすのは年に1回あるかないかだ。
 そして今回ももうあと少しすればまた日本を離れ、彼女とは会えなくなってしまう。今度またいつ戻ってくるのかわからない。そう思うと今こうしている時間が貴重にも感じられて、ずっと続けばいいのにとさえも思えた。

「そういえば央、いつまで日本にいるの?」
「え、あ、ああ、あと一週間くらいかな。このイベントが終わって、少し残ってる用事が終わったら戻る予定だよ」

 ちょうど考えていたことを話題を出され、少しびっくりしながら慌てて答える。

「そう、あと一週間しかないのね……。今度はまたいつ戻ってくるのかわからないのよね……」
「寂しい……?」

 目の前で肩を落とした撫子に気付き、央はおそるおそる彼女の顔を覗き込んだ。するとぱっと彼女の頬に朱が差し、もしかしてという思いが確信に変わる。撫子も同じ気持ちだったのが嬉しくて、思わず笑みが浮かんでしまうのが止められなかった。

「わ、笑わないで! 寂しいに決まってるでしょう!? 央は違うの!?」
「寂しいよ。寂しいに決まってるじゃない」

 たぶんその気持ちは撫子のより大きいのではないかとさえ思うくらいに。この時間がいつまでも続けばいいとさえ思うくらいに。
 笑みを引っ込め、真剣な表情の央に撫子も怒りを引っ込めた。でもその瞳は彼女には珍しく不安そうな色を帯びている。そして視線を彷徨わせて、しばらくすると彼女は意を決したように央を真っ直ぐ見て口を開いた。

「どうしてって聞いたら?」
「どうしてって……じゃあ、撫子ちゃんは? なんで寂しいの? それは友達だから? それとも……」

 少し身を乗り出して、伸ばした手で撫子の頬にかかる長くきれいな髪の毛をよけてその耳元で囁く。

『僕のことが好きだから?』

 央の言葉で撫子は顔を真っ赤にさせる。「ち、ちがっ」と口をパクパクさせて言葉を紡ごうとするけどうまくはいかないみたいだった。けれども言わんとすることは大体わかっただけに、央は落胆を隠しきれなかった。
 円抜きにしても今でもこうして2人きりで会ってくれることに少しでも期待していたのだろう。寂しいと言ってくれる彼女も同じ気持ちなのだと。

「そ、そうじゃなくて……! 違うことが違うのよ!」

 頭のいい彼女にしては珍しくおかしな日本語だった。
 否定の否定。ということは、つまり   

「えーと、それは僕の都合の良い解釈してもいい? 君も同じだって思ってもいい?」

 もうこれ以上は言わさないでと顔を伏せる撫子でようやくそれが央の勝手な解釈ではないことが知れる。
 顔を合わせにくいのか、伏せたままの彼女をつい抱きしめたくなる衝動に駆られたが、寸でで抑えつけた。その代わりに、小さくその耳元で囁いた。その言葉が撫子の耳まで赤く染め上げると理解しつつも言わずにはいられなかった。
 長い関係が終わり、新たな関係がここから始まろうとしていた。